自分の誕生&存在価値について
どうして私は生きているのか?
「どうして私は生きているのか?」という疑問は、人間として産まれてくるなら、それは当然抱く疑問でしょう。
「人生」という言葉は、「天から与えられた運命を全うする」ことだと解釈しております。「運命」とは「運」という言葉が含まれているとおり、私は有限であると感じています。なぜなら無尽蔵の「運」というものが存在するなら、それはもはや「運」とは呼べないと考えているからです。
人生とは「運」という持って生まれたものを消費する代わりに「徳」というものを積み重ねていく作業だと思うのです。
命の在り方
「命」という言葉について、皆様は考えたことがございますでしょうか?私はこの言葉にとても神秘的なものを感じます。
「令」=天からのいいつけ
「口」=個性を与えられた存在
この「命」という言葉は、上記の漢字の構成で「天からの使命を個人が全うする」という意味の言葉になります。
私は自ら命を絶つ人が許せないのは、天から与えられた使命も果たせず、寿命を絶ってしまうからなのです。
では、「天からの使命」って一体、何なんでしょう。私は「人様の為に注ぐ愛」だと思っています。天から与えてもらった命(時間)は、人により本当に様々で、中には不平等感さえ抱く場合もあるでしょうが、「無常(自分が生きている世界が日々うつろふ)」という言葉を突き詰めて考えると、必ず最後に「命」という答えになってしまうぐらい、個人の力では及ぶべくもない、寂しく儚いものなのです。
寂しく儚い・・・だからこその「愛」であり、「命」だと思うのです。あとは受け止める側が、心に秘めたる愛をいかに感じ取れるかで、その人の命の密度が変わるのではないでしょうか。
恋愛関係・婚姻関係について
届かない心
あなたはは私の存在は分かるけれど・・・それでも私の心は届かない。
あの人の事で悲しんでいるけれど・・・それでも私の言葉は届かない。
気持ちを聞いてくれているけれど・・・それでも私を受け入れてくれない。
そんなとき冷たく切ない・・・そよ風が私を通り抜けていく。
一瞬のひとときでも・・・幸福感を共有したかった。
「届かない心」ほど切ないものは存在しない!
それでも、私は「届かない心」を大事にしまっておきたい。
「奇跡」駅への切符
世の中には、「自分さえ良ければ・・・」と思っている人がいます。また、そんな人ほど自分勝手な行動を取ろうとしがちです。
そんな光景や事件を見聞きする度に、その人達が気の毒でなりません。なぜなら、自分勝手な振る舞いをされている人々は、運命に従っているだけで、自分の殻を飛び出せない人々だと私は考えているからです。この人達は、不運な事に自分では「運命を切り拓いていると思い込んでいます・・・」。
さて、皆さんは「奇跡」ということを信じていますか?まっ、信じていなくとも一度ならず(冗談でも)言葉に出されて言ったことはあるでしょう。
「奇跡」=「人間の力や自然現象を超えたできごと。神の力などとされ、宗教と結びついていることが多い」とのこと。
旧約聖書では「モーゼ」が紛争中に、海の水が割れて侵略者の軍勢が海に沈んだという伝説が「奇跡」を語るエピソードとしては、かなり有名だと思います。
また、数学的な側面から考えると、物理的な数量を超えた確率と言えるでしょう。ちなみに余談ですが、ひとたび「奇跡」又はそれに近い現象が起こったら、数学的には再び巡り合うという・・・法則が存在しています。例えば、宝くじで1等:3億円が当選した人が、また次に1等を当てる確立は、それまで当たらなかった人々よりも、高いという法則です。
どんな人間でも、私は最低2つの奇跡を起こす事が出来ると信じています。一つは「この世に生を受けた事」、二つめは「結婚するという事」です。どちらも、計り知れない確率でのめぐり合いだと思います。
「奇跡」という駅に到着する為には、私は自分の殻を乗り越えた人だけに与えられた・・・特別な切符だと感じています。自分勝手な人達・・・「運命の法則での範囲内でしか行動できない人達」は奇跡の起こりようがありません。
私は普段、奇跡という言葉を使いません。「奇跡駅への切符」・・・この切符は使いたいときまで、残しておきます。